「ん、もう朝か……」
カーテン越しの窓から太陽光が差し、その眩しさに目を覚ました。7年振りにこの街を訪れ、初めての一夜を過ごした。今日から新たな生活の第一歩が始まる。
「寒っ」
すぐにでも身体を起こそうと思ったが、あまりの寒さに再び蒲団に潜り込んだ。朝は寒いのが予想されるから、ストーブのタイマーを起きる10分前にセットしておいた筈なのだが、部屋は一向に暖かくない。
「全く何でこんなに寒いんだ……。現在気温はっと……げぇっ!?」
腑に落ちずストーブの温度確かめてみた。部屋の現在気温10℃。情けないことだが、未だに身体は帝都の感覚が抜けておらず、その感覚でタイマーをセットしてしまったようである。
「人は、同じ過ちを繰り返す……、全く……」
と、俺は某ニュータイプの台詞を口ずさんだ。まだ3日位冬休みがあるが後々の事を考え、俺は寒さに堪えながら起き出すことにした。
「さてと……早急に体を温める為体操でもするか……。あ〜た〜らしい朝が来たっ♪き〜ぼぉぉうの朝が〜♪ラオウ大葬第壱ぃぃ〜! 腕を前から振り下ろし、雑魚を葬り去る運動〜。壱、逃、ドォォォリャァァァ〜!! 惨、死、ヌオリャァァァ〜!!」
「うにゅ〜……祐一、朝から騒々しいよ……」
俺の声があまりにも五月蝿かったのか、重い眼を引きずった如何にも目覚めたばかりの名雪が俺の部屋のドアを開け、抗議をしてきた。
「部屋がまだ暖まり切っていないから、体を温める為に体操をしているだけだ。気にするな」
「もう、すっごく気になるよ〜」
「悪かった悪かった。次回以降は控えるようにするよ」
目覚め切っていない五体を無理にでも引っ張って来た名雪に敬意を表し、俺は自粛することを口約束した。
「それよりもこれから着替えを始めるから、悪いけど部屋から出てくれないかな?」
「分かったよ」
体操を中断したので余り温まってはいないが、名雪が部屋を退出したのを確認して俺は着替えを開始した。
「オープンゲット! チェェェンジ・ドラゴン、スイッチオン!! ゲッターァァァシャァァァイン! シャインスパァァァク!!」
「……祐一、いきなり約束破らないでよ〜」
ドア越しに名雪の声が聞こえてきた。どうやら完全には立ち去っておらず、恐らくは俺が着替え終わるのを待っていたのだろう。
「フ、あれはあくまで朝の体操の環境権に触れる諸行為を自粛するという意味。今は身体を温めながら着替えをしているだけだ」
「う〜、どっちもうるさいっていう点じゃ同じだよ〜。とにかく朝は大声出さないでよ〜〜」
このまま議論を重ねても切りがないので、俺は黙々と着替えることにした。
「ふう、着替え完了と」
着替えを終わらせ、俺は部屋の外で待機していた名雪と合流した。
「待たせたな、名雪」
「ううん。それじゃ、一緒に台所に行こっ。お母さんもう朝食の準備整えていると思うし」
「もう整っているのか……。秋子さんも流石主婦って感じだな……」
今の時刻は大体7時を回った辺りだ。起きる事自体は大した時間ではないが、朝食の準備をするとなると遅くとも6時には起きなくてはならないだろう。若い自分が年長者より遅く起きているのだから頭が上がらないものである。
「あっ名雪、悪いけど俺、朝の新聞見てから台所に向かうわ」
「うん分かったよ。朝から勉強熱心だね」
「今日のテレビ放送が気になるだけだ」
そう言い終え、俺は階段を降りた所で名雪と別れ、新聞が置いてあるだろう居間へと向かった。
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「新聞は新聞はっと……。あったあったこれか」
居間のテーブルの上に整然と置かれてあった新聞を俺は手に取る。手に取った新聞は初めて名前を聞く地方紙だった。
「へぇ〜、自自合意で衆院比例区の定数が200から150に削減か……。これで生徒総会レベルの国会も少しはマシになるか……」
地方紙だからどうせ地域的な記事しか載っていないだろうと思っていたが、一面は意外にも民自党総裁内閣総理大臣野淵敬三と新自由党党首倉田一郎の合意により衆院比例区の定数が削減されたという、中央の話題だった。しかしそれは新自党首の倉田一郎氏がこの街出身の政治家だからだろう。
倉田一郎。この街出身の親子二代続く政治家であり、親から引き継いだ支持基盤と親の七光りとは言えない独特な政治手腕により、この街では絶対的な地位を確立している政治家だ。かくいう俺の父も新自の党員であり、今度の父の引越しは来たる衆院選を見越し、早い内から選挙区での地盤を築く為のものだ。
(そういえば会って来いって話だったな……)
旅立つ前母さんから言われた言葉を思い出し、俺は溜息を付いた。母さんの話だと、この街には一郎党首の一人娘が住んでいるという話だった。年は俺と同じくらいだから一度会ってみるのも悪くないと母さんは言っていたが、あの一郎氏の娘と聞くと期待感よりも極度の緊張感の方が大きい。
(まあ冬休みはまだ何日かあるし、気が向いたら訪ねてみるか……)
気を取り直して俺は他の記事に目をやった。その他の記事は俺の予想通り地域色の強い記事が紙面を埋め尽くしており、俺が興味を引く記事は特になかった。
あらかた目を通し、最後にテレビ欄に目を通した。地方局であり、番組構成から系列を割り出す事しか出来ないが、一つ確信出来ることがあった。
(やはり何処の局も大きく取り上げていないか……)
10年前の今日、一つの時代が終わった。だがまるでその事を歴史から掻き消さんとばかりに何処のテレビ局も話題にしている気配はなかった。これがもし「東西ドイツ統合」、「ソ連崩壊」十年に当たる日だったらどうだったであろう。恐らく何処のマスコミもこぞって取り上げたことだろう……。そう―、今日は昭和天皇陛下が御逝去為さられた日、激動の時代”昭和”が終わった日である。
醜悪で愚劣なマスコミはいつもこうだ。日本の戦争犯罪は虚実すらまるで真実かのような報道のみに熱狂的で、その時代日本はどういう立場に置かれていたか、何故戦争に至ってしまったかを報道せず、戦勝国に媚びる行為を繰り返すことしか知らない。消し去りたいのだろう、この国から昭和という時代の歴史を、無菌室のように汚れのない国家にする為に……。そして過去を懐かしむ話をすればそれを全て黒く塗り潰し、現代と比べ如何に悲惨だったかを強調する。荒れた肌を過剰に嫌い、その上に戦後民主主義という西欧から輸入した化粧品で化粧を施そうとする。着飾りたいのだ、己の外見のみを! 戦前を衰えた肌とし、化粧で塗りたくった偽りの肌を世界にさらけ出したいのだ。今の自分達はこれだけ綺麗だ、そう強調したいからこそ荒れた肌を過剰に嫌い、そして国民に戦後民主主義という化粧品を塗りつける行為を強制させる。化粧をしない肌で過ごそうとする者の意思を非難し、消し去ってまで……。
(しかし、人のことは言えないな……)
マスコミが昭和という時代を意図的に忘れてしまおうとしているように、俺も意図的に忘れてしまった記憶がある。
1月7日……今日この日、自分にとって”昭和が終わった日”という日以上に重大な意味を持ち、忘れてはならない思い出があった気がしてならない……。
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第弐話「『羽』という名が刻まれた街で……」
着替えが終わり、名雪と一緒に1階に降りた。台所では既に秋子さんの手により、朝食の準備が整っていた。
「あれっ!?」
食器が並べられているテーブルを見て、俺は違和感を覚えた。並べられている食器は4人分、どう見ても1人分多い。
「秋子さん、これ……」
「祐一さんの言いたいことは分かりますわ……。今日はあの人が居なくなるきっかけになった日ですから……」
「あの人……?」
「祐一、お母さんは待っているんだよ、帰って来る筈無いお父さんの帰りを……」
「お父さんの帰り……あっ」
それを聞いて思い出した。この昭和が終わった日というのが秋子さんにとってどれ程重要な意味を持っていたかを……。
秋子さんが待ち続けている最愛の人、その人は俺の母の兄でもある春菊さんという人だ。亡くなったと聞かされたのはもう10年も前の話であり、どういう人であったかはあまり良く覚えていない。
けど、厳しく威厳を持った風格の中に常に優しさを秘めていた、そんな人だったという漠然としたイメージは頭の片隅に焼き付けられている。
そんな春菊さんが秋子さんの前から姿を消したのは10年前の昭和天皇大葬の日だと聞いた。春菊さんは旗日には必ず祝日には国旗を掲揚していたことから、近所でもその愛国心振りは有名であったという。自分の父が海軍軍人ならば、それは当然の行為であろうが。
それで明治の乃木大将のように、天皇の大葬に合わせ殉死したのではないかというのが、近所でのもっぱらの噂だったと聞いた。
だが、秋子さんは信じなかった。あの人が私と娘を置いて死ぬ筈は無い。乃木大将だって最愛の妻と共に殉死したくらいだ。きっと姿を現せない深い事情があるのだと……。
春菊さんが蒸発した次の日、秋子さんは警察に捜索依頼を頼んだ。それから暫くし、北上川のほとりで春菊さんの物と思しき遺書が見つかった。筆跡も間違いなく本人のものと照合し、春菊さんは自殺したのだと警察から公式発表が為された。だが、死体は上がっていない、あの遺書は偽装に違いない。あの人はきっと何処かで生きている……。秋子さんはそう頑なに信じて止まなかったという。
それから秋子さんは待ち続けた。雨の日も、風の日も、何日も、何ヶ月も、そして何年も……。必ず生きていると、きっと帰って来ると……。
「理性では分かっているのです……。あの人はもう戻って来ないと……。ただ、今日この日を迎えるとどうしてもあの人が帰って来る、そんな気がしてならないのです……。
ですからもしあの人が帰って来たならすぐにでも私の手料理を食べさせられるようにと、無意識的にあの人の分の食器を並べてしまうのです……」
一人分多く並べられた食器、それは今でも変わらない秋子さんの夫に対する想いが形になって表れているのだろう……俺にはそんな気がしてならない。
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(さてと、これからどうするかな……)
朝食後、俺は別段やる事もなく暇を持て余していた。
「そういや、何も整理していなかったな……」
部屋に戻って気が付いたが、引越しの為にこちらに送った荷物を殆ど運んでいなかった。ストーブと蒲団、昨日運び出したのはこれくらいである。せっかくだからこの時間を利用して何か運んでおこうと思い、俺は何を運ぶか思案する。
「とりあえずタンスでも運ぶか……」
今日着ている服は昨日の服と同じ出し、下着は自前のバックで何日分かは持って来た。しかし、早く運んでおくに越したことはないので、俺はタンスを運ぶことにした。
「たかがタンス一つ、自分一人だけで運んで見せる! νガンダムは伊達じゃない!!」
タンスといっても幅50〜60センチ、高さ140〜150センチ程の小さいものだから一人で運べるものだと思い、アクシズを押し返す気持ちで持ち上げた。しかし持ち上げることは出来たものの、これを持ったまま階段を昇るのは危険が伴いそうだった。
「名雪〜、悪いがタンス運ぶの手伝ってくれないか〜」
人手が欲しいと思い、俺は2階の名雪の部屋の方に声を掛けた。
「手伝うのは構わないけど、わたし、そんなに力ないよ」
「別に力がなくても構わないさ。ただ、バランス取りの為に人手が欲しかっただけだからな」
「分かったよ」
名雪が下に降りて来たのを確認し、俺は作業の説明をする。
「いいか、俺がこれを持ち上げたら、その反対側から押さえてくれ。ただそれだけでいいんだ」
「了解だよ」
説明をし終え、早速作業を開始した。まず俺がタンスを持ち上げ、次に名雪が俺の対面からタンスを支えた。
「よし、そのままの態勢で後ろ向きに階段を昇ってくれ」
「うん。1、2、1、2」
「1、2、1、2」
名雪が一歩踏み出す毎に、俺が一歩進む。掛声と共にその作業を繰り返し、無事2階にタンスを運ぶことが出来た。
「ありがとう名雪。あとは俺一人で大丈夫だけど、俺の部屋のドアを開けてくれたら助かるな」
「分かったよ」
名雪が先行し、俺の部屋のドアを開けた。俺はタンスを持ち上げながらそれに続き、ドアが開き切った自室へ難なくタンスを運んだ。
「ふう、運搬完了と」
「祐一、次は何か運ぶの?」
「そうだな。とりあえずはタンスの中に下着や服を入れるかな。重いものは今日はもう運ばないと思うから、後は特に手伝わなくて良いぞ」
「うん、分かったよ」
「手伝ってくれてありがとうな、名雪」
「いえいえ、どう致しまして」
名雪が立ち去った後、俺はタンスを部屋の何処に配置するか考え、配置し終えた後中に入れる服を持ってくる為再び1階へと降りた。
「ふう、意外にしんどいな…」
服一つ一つは大した重さではなかったが、何度も何度も階段を往復する動作は確実に疲労感を溜め込むものだった。
タンスと服を運び終えただけで大分労力を浪費したので、その日の午前中はあとは軽いCDプレイヤーとCD類だけを運んで、一連の運搬作業は打ち止めすることにした。
「祐一〜、お昼ご飯だよ〜」
敷きっぱなしにしていた蒲団に横になりCDを聞いていたら、名雪が下から声を掛けてきた。ストーブのデジタル時計を見ると、丁度正午に差し掛かった頃だった。
「あれっ、秋子さん?」
台所に向かうと何故か秋子さんが居り、俺は疑問を感じられずにはいられなかった。
「今日は勤めているお店がお休みなのですよ」
平日が休みということは、秋子さんが勤めている店はスーパーとかそういった店なのだろうか。
「イチゴジャム〜イチゴジャム〜」
昼食は朝食とは一変し、トーストやハムエッグなどの西欧色の強い料理だった。名雪はトーストに嬉しそうにイチゴジャムを塗って食べており、俺はマーガリンを塗ってトーストをかじり始めた。
「あれ、でも朝何処かに出掛けていませんでした?」
食事をしながら秋子さんに訊ねた。仕事が休みなのに外出したので、その理由が単純に知りたかった。
「ええ。今日はあの人の親友の命日でしたので、その墓参りに」
「えっ―?」
「もう17年になりまわすわね、その親友が亡くなってから……」
「……」
「その人は主人の子供の頃からの親友でした…。17年前の今日、古くからの親友が亡くなり、そして10年前の今日、その親友と共に過ごした時代が終わりました。今日この日は主人にとっての遠き日々の全てが失われた日だったのでしょうね……」
それは暗に自分の最愛の人が逝った理由を理解しているということなのだろうか……。ただ一つ言えるのは、春菊さんにとって今日は忘れられない日であり、そして残された秋子さんにとっても忘れられない人いうことだ。
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(さて、そろそろ行ってみるか……)
昼食を取り部屋で小休止した後、俺はコートを着て外出する準備をした。
「あっ、祐一、これからどこかへ行くの?」
「ああ、ちょっと気晴らしに商店街を散策してくる」
名雪に一言言い残し、俺は外出した。慣れない雪道を歩き、昨日来た道を思い出しながら、俺は商店街を目指して歩き始めた。 |
「この街で過ごし、この街を歩けばきっと思い出しますわ」 |
昨日夜頭に響いて来たこの言葉。この言葉が昨日からずっと気掛かりで、言わば俺はこの啓示ともとれる言葉に誘われて商店街に繰り出したようなものだ。
商店街、と言っても昨日水瀬家に向かう過程で通ったのだが、個人店がまばらに建っているだけでおり、とても帝都の街並みなどとは比較出来るものではなった。その程度の街並みで一応は商店街と呼ばれているのだから、やはりここは田舎ということなのだろう。
その商店街を歩きながら、俺は7年前の自分の行動を降り返ってみる。何となくだが、その当時を思い起こせば何か思い出す気がしてならない。
魚屋、酒屋、本屋に郵便局、商店街に佇んでいる建物は7年前と変わらぬ姿を見せていた。そんな中一軒だけ記憶にない建物があった。
「コンビニか……」
自分の記憶にない一軒のコンビニエンスストア、コンビニが乱雑して来たのはここ4〜5年のことだから、その間に建て替えたのだろう。こんな片田舎にも一軒だけだがコンビニがあるのだから、これも時代というものである。
「寒っ」
意味もなく感慨に耽っていると、突然背中に冷たい北風を浴びた。今日は昨日のように雪が降っているわけではなく、帝都と同じ装備でも何とか寒さを凌いでいた。しかし冷たい風を浴びると、とてもではないが堪えられなくなる。
(ふう、コンビニで何か暖かい物でも買って帰るか……)
そう思いコンビニに入ろうとした瞬間、
「そ、そこの人〜、どいてどいて〜」
「えっ!?」
ドンッ、ズシャ!
突然後ろから何かが俺目掛けて突進して来、俺は声の方を振り向く間なく突進に巻き込まれた。後方からの奇襲攻撃に対処出来ず、冷たい雪の道路にその身を投げ出す羽目になった。
「うぐぅ〜」
「くっ……。ええい、この私が直撃だというのかっ!?」
赤い彗星を自称している俺と言えども、慣れない戦場では思うように動くことが出来なかった。しかし、妙な奇声は発していたものの、声を聞く限りぶつかって来たのは人間の女の子のようであった。
「うぐぅ〜、いたいよ〜お鼻ぶつけたよ〜」
「大丈夫か?」
大きな紙袋を手に抱え、オレンジ色のダッフルコートを纏い、頭には赤いカチューシャ、そして背中には何故か羽が付いた少女。少女は俺の前で如何にも痛そうに鼻を擦っていた。
「ひどいよ〜、どいてって言ったのに〜」
「すまん、すまん。謝罪しよう。赤い彗星ともあろう者が、この程度の攻撃、避けられぬとあっては末代までの恥だからな」
そう言った瞬間、俺は自分自身の言動を後悔した。見知らぬ少女に対して、次元の違う言葉を使ってしまったことに……。
「うぐぅ……」
案の上その少女は俺の言動が理解出来ていないようで、「うぐぅ〜」なる意味不明な奇声を発していた。
「ま、まあそれだけ騒げるなら何ともない証拠だな。それよりも、どうしてこんな雪道を走っていたんだ?」
「えっと……それは……」
「車にわざと当たって賠償金でも貰おうとしたのか? チョパーリに謝罪と賠償を要求するニダ! っていう感じに」
「うぐぅ〜、そんなことしたら体がもたないよ〜」
「はは……それもそうだな……」
初めてなのに初めてではない会話。この見知らぬ少女と話をしていると、不思議に懐かしさを感じる。
「ええっと……何て言ったらいいかな……。大好きな人に会えそうな気がして、それでうれしくって自然に体が動いたんだよ」
随分と軽率な理由だと思った。嬉しいから走る、行動がまるっきり子供である。
「で、待ち合わせとかもしないで会おうと思ったのか?」
「うん!」
それを聞いて自分にはとても真似出来ない行為だと思った。予め待ち合わせをしていても昨日の名雪のようになることだってあるのだ。何時何処で会えるとも分からない者に会おうなどとは、自分がニュータイプにでもならない限り行わないだろう。
「それでキミの方は何してるの?」
「えっ、俺か? まあ、街を単にブラブラしているだけってとこかな」
「それじゃボクと同じだねっ」
俺は別に人を待っているわけではないが、待ち人が来ていない状態ならば、確かに同じ立場だろう。
「ところでその手に持っているのは何だ?」
「たいやきだよ」
「鯛焼き!? それ全部が!?」
「うんっ」
大きな紙袋を大事そうに抱え、少女は笑顔で頷いた。手に余る程大きい紙袋。それ全部に鯛焼きが詰まっているのだとはとても信じられない。
しかし、この少女の笑顔は嘘をついてはいない。となれば、紙袋の大きさから想定して10匹は軽く入っているだろう。とてもではないが、一人二人では食べ切れる量ではない。
「そんなにいっぱい買っちゃ食べ切れないだろ。良かったらお兄さんに一つくれないかい?」
「ダメだよ。これはボクが大好きな人と食べるものだから誰にもあげられないよ!」
「そうか、それは残念だな」
別に食べたいなどとは思っていなかった。けど、この少女の笑顔を見ていると自然にからかいたくなる。怒っている顔、困っている顔、まるで懐かしい何かを思い出したくなるように、表情豊かな顔を見たくなる。
「ところで待っている人ってどんな人なんだ?」
何となくもう少し話をしてみたいと思い、俺は少女に気軽に話し掛けた。
「う〜ん……。どんな人って言われてもずっと会っていないから……」
「すっと会っていないって、そんな人と会おうとしていたのか!?」
「うん。その人、前会った時に冬にならないとこの街に来ないって言ってたし。その時からずっとその人が来るのを待っていたんだよ、でも……」
「でも、いつの間にか冬にすら来なくなったていうことか?」
「うん……。でもね、いつかぜったいに会えると思うんだ。だから会えたとき今まで会っていなかった分だけ楽しくすごせるように、いっぱいいっぱいたいやきを買ったんだ!」
随分と無駄な事をするものだと思った。いつ会えるとも分からない人と出会う為に食べ切れない程の鯛焼きに資金を投入しているのだ。全く持って子供な行為だ。
でも、不思議と悪い気がしない。恐らく少女は本当にその人に会いたいのだろう。そして失われた時を埋め合わせたいのだろう。だからこそ、無邪気に、無垢に、あんなに一杯の鯛焼きを抱えて……
「逢えるといいな」
そう言い、俺は少女と別れ家路に就いた。少女は別れる俺にいつまでも、いつまでも手を振り続けた。大好きな人を待ち続けている、その屈託のない笑顔を絶やさずに……。
屈託のない少女の笑顔。その笑顔の裏には会えない哀しみや辛さが眠っているのではないだろうか? 久し振りに会う大好きな人に笑顔一杯で会う為にそれを必死で隠して……。
何故だろう? どうしてあの少女にこうまで思い入れをしてしまうのだろう……?
分からない。でも多分それは、俺もその少女と同じく誰かに会いたいと思っているのではないだろうか?
それが誰だかは分からない。夢の中の啓示の言うようにこの街でもっと多くの刻を刻めば思い出すのだろうか……。
…第弐話完
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※後書き
改訂版第弐話です。「Kanon傳」では一話でまとめられていたのが、要領が多くなって二話になりました。要領が多くなった理由としましては、日常的描写が増えたことですね。あとはどうでもよい社会評論したりとか(笑)。祐一の思想は基本的に右寄りですが、それは祖父が海軍軍人なので、当然といえば当然なのです(爆)。
あとこれもどうでも良いことですが、以前「Kanon傳」が「左翼SS」と紹介されていたことがありました(笑)。どちらかといえば右翼SSだろうがと自分でツッコンでいましたが。
ちなみに右寄りのノリが好きな方には、「世界史コンテンツ」と『コリアンジェノサイダー・nayuki』をお勧めしておきます。私のSSなどより数十倍は面白いので。
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第参話へ
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